【2017-02-14初版】
大げさではあるけど、2017年現在に至るまでの音楽的な経緯を自分のための記録も込めて書いておく。とりわけ音楽をお仕事にさせて頂いた時期からのことを振り返ることにするよ。ただし、SEOされるのを避けるため、アーティスト名や個人名は出さないことにする。
最初のお話を頂いたのは2000年。FMラジオのラジオドラマ用BGMとCMが最初だった。当時親しくしていた大学の後輩関係から頂いたお話。貴重な体験だった。自分の作ったものが公共の電波に乗る。同時期にCSの某番組のBGMも担当させていただく。そして2001年からは、お世話になっていた所が推薦するアーティストのサポートミュージシャンという形で一緒にステージに立たせて頂くことに。ギター、ピアノを主に担当し、関西圏の大学の学園祭やライブハウスのショーケースライブなど数多くのステージを経験させて頂いた。今振り返ると、本当に貴重な時間。なかなかいきなりアーティストのサポートなんて出来ないからね。
ただ、明らかに違和感を覚えていた。当時をぶっちゃけると、僕はベースも弾きたかったし、R&Bをもっと掘り下げた音楽がしたかった。自分の礎を活かした音楽と触れたかった。そのまま仕事として音楽をやり続けても、どこかで頭打ちするのは明らかなくらい、知識不足。それを経験で補えるほど甘いものじゃない。そんな考えもあり、ステージに立つ時間以上に、大学時代を共にした仲間たちとスタジオに入ってブルースセッションをする機会を多く作った。さっきも書いたけど、この時期はもっと掘り下げたかった時期だった。もっとはっきり言うと、そのアーティストがやっている音楽とは距離を置きたい時期だったんだ。
そんな折、そのアーティストの仕事で別のアーティストと知り合う。当時出会ったアーティストの中では特にずば抜けたセンスを持っていたと今でも思う。そして、これまた幸運なことに彼らのレコーディングにベースで参加させてもらうことが出来、同時にその作品のディレクションをしてくださったミュージシャンと知り合う。その後、その方はメンターとしてブラックミュージックのイロハを教えてくださった方だ。自分としても、ずっと仕事としてプレイしたかったベースで、しかも黒人音楽の全てを知る方とこのタイミングで知り合える幸運。ターニングポイントだった。正直、この方に出会ってなければ、ここまで明確にブラックミュージックとその他の違いを体現できなかったし、2010年に発売した自分のアルバムももっとぼやけたものになっていたと思う。2002年に知り合い、2005年あたりまでこまめにレッスンしてくださった。R&Bのイロハをそれこそ身体に埋め込んでもらった。
先述のベースで関わったアーティストをきっかけに、トントン拍子に色々なアーティストと共演する機会を頂く。ラッキーなことに、多数のブラックミュージック好きなアーティストと知り合えて、彼らの作品に自分のプレイを残せたのは大事な財産だ。そして、2005年、2007年に関西で自分主催のイベントをも開催する。2005年はそれまでに知り合ったアーティストたちを繋ぐイベント。2007年は自分の礎でもあるR&Bをキーワードに、まだ共演したことのないアーティスト同士を結ぶイベント。正直な話、どちらも興行収入は大したことはなかった。そのことに興味がなかったんだろう。ただ、この2つのイベントはその後の決断に大きな影響を与えている事は確かだ。
同時期、卒業した大学の後輩たちが作品を発表したり、音楽活動を軌道に乗せ始めていて、これも自分のことのように嬉しかった。うち1組の作品ではプレイさせてもらったし、ライブにも出演させてもらった。ツアーにも一緒に行ったりね。他の後輩は2005年のイベントにも出てもらった。どれもかけがえのない思い出。今となってはあの大学も閉校してしまったし、あの場所で会える機会はないんだけど、それは重要ではなく、それぞれが思う道でやり続けているというのが誇らしい。
2008年4月、関西でベーシストとしては中くらいの位置にいただろうか。バンドもブルースバンドとクロスオーバーバンドの2つをこなし、様々なビッグネームとの共演も果たした。しかし、新たな目標が出てきた。制作を自分の軸としてすること。2006年頃からネットを活用して海外の制作チームとデータを交換しつつ作曲や編曲をやり続けていたが、そちらに本腰を入れたかった時期だった。しかし、関西でのフォーマットは「まずライブありき」という活動方法。これは今も変わっていない。ネットが高速化し、音楽に触れる手段としてネットが認知され始めていた時期というのもあり、自分としては「もっと合理化出来るだろう」と思い、ずっと違和感があった。だから拠点を移すことにした。
2008年12月、関東に移る。最初の頃は、関東での地場固めという目的もあって数多く開かれるセッションにも顔を出したが、関西時代と同じ違和感を抱くこととなる。それに比べると制作中心の生活はとにかく家から出ないんだけど、何かしら「ハマった」感覚があった。その頃、関東のミュージシャン界隈ではTwitterが流行り始め、自分も例に漏れずアーリーアダプトし、多くのセッション仲間を見つけることとなる。それぞれの仕事や年齢、歴を取っ払い、色んなコミュニケーションを取れたのは面白かった。その方たちのおかげで、自分のアルバムがAmazonチャートで一位になるという、これこそ一生に一度あるかないかの経験も出来た。本当にありがたかった。制作にきっちりフォーカスでき、2012年までに関われた楽曲としては1200ほどになるだろうか。こちらも本当に貴重な時間だった。2008年から2012年というのは表立った作品は少ないけど、音楽人生においては一二を争う濃い時間だった。
今振り返ると、数多く経験したものに無駄なものは何もない。そして、過去の経験から学ぶことが未だに多い。一方で、やり方は少しずつ変わってきてるし、扱うツールは当然ながらどんどん変化している。機材やPCまわりにしても、VSTiにしても、DAWにしても。そういった細かな変化を楽しむ余裕があったからこそ、拠点を移しても軸をぶらさずに制作できたのがあったのかもしれない。
2012年、大きな決断を下す。音楽活動の一時休止だ。2011年にアルバムが世に出て以来、各国からオファーが相次いだ。同時に、様々な契約下に置かれており、一人では処理しきれないと感じていた時期だ。同時期、劇的に増えた英語のコミュニケーションを前に、英語のスキルをもう少し上げたいという目的もあり、同年の4月、カナダに渡る。
音楽を仕事としない生活は久々だった。同時に、とても新鮮だった。しかも、自分にとっては初めての海外。初めての異国での普通の生活。毎日ワクワクしていたのを昨日のように思い出す。幸運にも、自分の目的に合った語学学校を見つけ、3ヶ月半みっちり英語学習と実践。テレビでやってるドラマなんかは字幕はほぼいらなくなった。このカナダでの経験は、後の日本での生活、そして音楽経験にも大いにプラスとなる。
同年8月に帰国。カナダに渡る前に参加していた作品が夏コミで頒布されるということで、帰国早々に参加させて頂き、とても楽しかった。そして、同年10月に渡加前に所属していたレーベルの制作チーフとなる。これは、英語コミュニケーション能力だけが足を引っ張っていたと後に知ることとなる。海外の制作チームと本当にがっつりやりたければ、ある程度きちっと英語力もつけなきゃいけない。この時に身をもって痛感した。
再び日本をベースに制作チーフとして活動していた2016年、耳に少し違和感を覚え始める。同時期、ある種の達成感があった。自分が思い描いていた形である程度の年数を活動することがやっと出来た、と。一方で、耳の違和感はホンモノだった。聴力低下。定位が定まる時と定まらない時があるのだ。幸い、難聴の類ではなく、一時的なものではあるのだが、多くの作品や多くのクリエイターと関わる中で知らず知らず無理をしていたのも事実。
そして同年末、音楽活動の優先順位を下げる決断を下す。幸い、一人で何もかもやらないといけない状況は2012年に脱していたので、制作チーフを別のメンバーに託し、アドバイザーとしてチームに関わり、自分が培った音楽と英語のスキルを活かすという目的のもと、現在は動いている。
t_tanaka
音楽家 / 編曲家 / Twitchストリーマー / フライトシマー。2001年よりプロの演奏家として関西を中心に活動。2008年より関東に本拠を移し、インターネットを使ったリモートでの音楽制作チームを結成し、以降は編曲家とチームマネジメントに特化した活動を続ける。







